元営業マンと新入社員が読み解く、経営戦略と人的資本の関係
辞令は突然に
人事課?
組立拓海(くみたて・たくみ)、34歳。営業課のムードメーカーとして10年。顧客の懐に入るのが得意で、飲み会の幹事をやらせたら社内随一。そんな男の手に今、一枚の辞令が握られていた。
4月1日付 人事課 配属を命ずる
俺、人事なんか触ったことないで?
人事考課って……
あれやろ、年末に◯つけるやつ……
株式会社ネジマキ精工。従業員およそ300名。精密機械部品を手作業中心で製造する、いわゆる"ものづくり企業"だ。ここ数年、自動化やDXの波が押し寄せ、「今のままじゃまずい」という空気が社内に漂い始めている。人材開発が急務だと経営会議で何度も議題に上がるが、具体策は何も進んでいない。そこに白羽の矢が立ったのが、なぜか営業畑一筋の拓海だった。
営業も最初はそうやったし
そう自分に言い聞かせ、拓海はデスクの荷物をまとめた。段ボールを抱えてエレベーターに乗り、3階の人事課へ向かう。ドアの前まで来たところで、ふと気づく。
踵を返し、2階の営業課まで走って戻る。息を切らせてスマホを回収し、もう一度3階へ。初日から汗だくである。
ドアノブに手をかけながら、拓海は誰に言うでもなくつぶやいた。
読んでいる新人、読んでいない上司
人事課の扉を開けると、窓際の席にひとりの女性が座っていた。まっすぐな黒髪をひとつに結び、姿勢よく本を読んでいる。デスクの上には真新しいノートとペンが几帳面に並んでいた。
新入社員の仕上ひかりです
今日からよろしくお願いします
仕上ひかり、22歳。今年の新卒で、配属先が人事課だった。さっぱりとした表情で、物怖じする様子がない。
よろしゅうな
俺のことはタクさんって呼んでくれたらええよ
……ところで、それ何読んでるん?
ひかりの手元にあったのは一冊のビジネス書。表紙には『研修体系とスキルマップのつくりかた』と書かれていた。
昨日のうちに買って、朝イチから読んでます
拓海は思わず目をそらした。自分は辞令をもらってから「まあなんとかなるやろ」としか考えていなかった。
沈黙。拓海の頭の中で、高速で検索エンジンが回る。しかし出てくるのは「面接」「給料」「年末調整」という断片ばかりだ。
ちゃうんか?
ひかりの目が、すっと細くなった。呆れているのではない。正確に言えば、「やっぱりそう来ましたか」という顔だ。
でもこの本の最初の数ページを読んだだけで、全然違うって分かりました
一緒に読みませんか?
私もまだ途中なので
拓海は段ボールをデスクに置き、ひかりの隣の椅子を引いた。元営業マンと新入社員。人事の知識はゼロとゼロ。完全に同じスタートラインだった。
二人で読む、二人で考える
ひかりが本を開き、序盤の一節を要約して読み上げた。
人事の仕事の本質は、経営戦略を実現するために、人材――
つまり"人的資本"の質と量を最適化する機能だって
さいてきか?
急にビジネス書っぽなったな
で、"経営戦略を実現する"ってことは……
人事って経営に直結してるってこと?
人を採って給料を払うだけの部署じゃないんです
拓海は腕を組んだ。営業時代、「戦略」という言葉はよく聞いた。だが正直、雰囲気で使っていた節がある。
偉い人がパワポで発表するやつか?
戦略とは、将来のあるべき姿と現状との差を認識し、その差を埋めるために組織として取るべき行動をまとめたものだと
拓海はしばらく黙って天井を見た。それから、ぽつりと言った。
"今期の売上3億円"みたいな
で、今の見込みが2億しかない
差が1億ある
その1億をどう埋めるか、新規開拓するんか、既存客の単価上げるんか、作戦を立てるやろ?
あれ、まんま"戦略"やん
ひかりが少し驚いた顔をした。
それ、すごく分かりやすいです
将来のあるべき姿が"売上3億円"、現状が"見込み2億円"、差が1億円
その差を埋める行動計画が戦略。完璧に合ってます
二人は笑ったが、すぐにひかりが真剣な表情に戻った。
戦略を実行するために必要な能力のことを、この本では組織能力って呼んでいます
つまり、会社として"これができる"っていう力のことか
ネジマキ精工で言えば、手作業の精密加工技術がまさに組織能力ですよね
でも今、自動化やDXが求められている
つまり、今の組織能力だけじゃ将来のあるべき姿に届かない
で、その組織能力を獲得したり強化したりするために打つ手が、人事施策なんです
具体的には採用、人材育成、評価の三つ
拓海はノートを取り出した。営業時代、商談メモは欠かさなかった男だ。こういうところだけは几帳面である。
えーっと……
拓海がノートに書いた図はこうだった。
経営戦略(あるべき姿 − 現状 = 差)
↓
その差を埋めるために必要な力 = 組織能力
↓
組織能力を手に入れるための手段 = 人事施策(採用・育成・評価)
ひかりがノートを覗き込み、小さくうなずいた。
きれいにまとまってますね
図解は得意やねん
……ほな、俺らが人事課でやるべきことって、この三つの施策を回すことなんか
教育施策の役割は、人材育成を通じて、人的資本の質と量を最適化することだって
つまり、ただ研修やって終わりじゃなくて、会社の戦略に合った人材を"質"と"量"の両面から整えるってことやな
研修が目的じゃなくて、戦略実現が目的。研修はあくまで手段
拓海はペンを置いて、窓の外の工場棟を見た。そこでは今日もベテラン職人たちが、ミクロン単位の精度で部品を削っている。その技術をどう伝承するか。新しい技術をどう取り入れるか。それを仕組みとして設計するのが、これからの自分たちの仕事なのだ。
でも、正直ワクワクしてきたわ
営業で"戦略を立てて実行する"ことはやってきた
そのフィールドが"人"に変わるだけやろ?
ひかりが本をぱらりとめくった。まだ序盤だというのに、付箋がすでに何枚も貼られている。
研修体系のつくりかた、スキルマップの設計、具体的な運用方法……
正直、読めば読むほど奥が深いです
俺が素朴な疑問係で、ヒカリちゃんが解説係や
俺は営業経験からの"たとえ話"を提供するから!
忘れ物の行方
夕方。初日の業務を終え、拓海は大きく伸びをした。
人的資本の質を上げるのが俺らの仕事か
ということは……
俺らも"質の高い人材"やないとあかんな
ひかりは黙ってうなずいた後、淡々と言った。
人的資本の最適化、まずは自分からどうぞ
拓海はがっくりと肩を落とし、それから照れくさそうに頭をかいた。
ひかりが小さく笑った。
窓の外では、春の夕日がネジマキ精工の工場棟をオレンジ色に染めていた。元営業マンと新入社員の凸凹コンビ。人事の冒険は、まだ始まったばかりだ。
次回予告 「研修体系って何?」「スキルマップって何?」――言葉は聞いたことがあるけど、ちゃんと説明できる人は意外と少ない。次回、タクさんとヒカリちゃんは本の核心部分に踏み込んでいく。「うちの会社に研修体系なんかあったっけ?」というタクさんの一言から、ネジマキ精工の"人材育成の現在地"が明らかになる。お楽しみに。
参考書籍:『研修体系とスキルマップのつくりかた』
この物語はフィクションですが、学びの内容は本書に基づいています。
