宣言のあとに来たもの
この連載を始めたとき、食材管理アプリをお披露目して、独立を目指すという宣言をした。前回は、その次に何を足すか——献立につなげる機能の話を書いた。
でも今回は、機能の話をいったん止める。宣言と、前を向いた観察の裏側で、ずっと抱えていた気持ちを正直に書いておきたいからだ。
「これ、本当にいいのか、分からなくなってきた」
アプリは毎日使っている。自分で作ったものだから、多少面倒でも入力する。面倒な部分を見つけては、少しずつ改善もしている。手は動いているのだ。
でも、入力しながら、ふと頭をよぎる。
この改善の方向で、あってるのか? そもそもこれ、自分以外の誰かに必要とされるのか?
前向きな回の次が不安の話で申し訳ないのだが、独立を目指す過程の記録としては、たぶんこちらのほうが正直で、価値がある。同じところで立ち止まっている人が、きっといるはずだから。
妻に話した日
このアプリの、最初の潜在ユーザーは誰か。考えるまでもなく、妻だ。我が家の料理の主担当であり、食材にいちばん触れている人。
だから話してみた。反応は、想像していたものに近かった。想像していたのに、やっぱり嬉しくなかった。
興味を示さない、どころではない。**「それ、私のこと責めてるの?」**くらいの空気だった。
食材を管理するアプリ、という提案は、受け取り方によっては「あなたの管理ができていない」というメッセージになる。作った本人にその意図はまったくなくても、だ。
もちろん説明はした。冷蔵庫の中身が外出先でも分かるから、買い物のとき便利でしょ? と。それで納得はしてもらえた。でも、使おうとは思ってもらえなかった。
本音はたぶん、こうだろう。「ただでさえ忙しいのに、仕事を増やさないで」。
アプリへの入力は、彼女にとって新しいタスクでしかない。便利さが伝わる前に、コストが見えてしまう。これが、いちばん身近な潜在ユーザーに話した結果だった。
不安の正体を分解する
「分からなくなってきた」を放置せず、分解してみる。
便利だと感じているのが「慣れ」なのか「価値」なのか区別できない。改善の方向が合っているのか判定基準がない。いくつか候補はあるが、いちばん大きいのはこれだった。
自分以外の人が、これを使っている姿が、まったく想像できない。
面白いのは、会社でシステムを作っているときには、この種の不安がないことだ。
会社では倉庫の在庫管理システム(WMS)を開発している。あちらで心配なのは「ちゃんと使えるものが作れるか」であって、「必要とされるか」ではない。必要とされていることは、最初から確定している。現場があり、業務があり、困っている人がいるからだ。
つまり、こういう対比になる。
- 会社のシステム:必要とされるのは確実。作れるかが不安。
- 自分のプロダクト:作れるのは分かった。必要とされるかが不安。
不安の場所が、ちょうど逆なのだ。
会社で作るときは、要件があり、ユーザー部門があり、検収がある。「これでいい」を判定してくれる仕組みが、最初から組み込まれている。独立プロダクトには、それが全部ない。判定者は自分だけ。N=1。作る人と使う人が同一人物という状態は、フィードバックが最速で回る環境であると同時に、フィードバックが自分の外から一切来ない環境でもある。
それでも手が動く
不安を抱えながらも、実際には改善を続けている。
最近やった改善で気に入っているのは、「個数の変換」だ。レシートの上では、たまごは1点。でも中身は10個入り。アイスの箱は6本入り。バナナは1房で5、6本。買うときは「1点」なのに、使うときは「1個ずつ」。この単位のズレを埋めるために、取り込み時に個数をばらせるようにして、使うときも1個ずつ減らせるようにした。
自分で毎日使っているからこそ、この不便に気づけたし、直した翌日から自分で効果を確かめられた。N=1開発の強みは間違いなくここにある。観察→改善→検証のループが、一人の生活の中で最速で回る。
ただし、その改善が「他人にとっても価値か」は、このループでは永遠に判定できない。たまごを1個ずつ減らせて嬉しいのは、世界で今のところ私一人である。光と影は、同じ場所にある。
「作れること」は、もう差にならない
もうひとつ、使い込むうちに育ってきた疑問がある。
私は非エンジニアだ。コーディングを覚えたいと思いながら、時間も勉強の仕方も分からず、諦めていた側の人間だ。その私が、AIの力を借りてアプリを作り、毎日使っている。しみじみ思う。非エンジニアでも、作れてしまうのだ。
嬉しい実感であると同時に、こわい実感でもある。私に作れるなら、誰にでも作れる。「作れること」自体は、もう差にならない。
では、何が差になるのか。
まだ答えはない。ただ、最近ぼんやり思っているのは、差はシステムの中にはなくて、オフラインの側にあるのかもしれない、ということだ。人と人との関わり合いなのか、リアルな場所なのか、体験なのか。具体的にこれだ、と言えるものはまだ何もない。仮説の芽だけ、ここに置いておく。この連載のどこかで、育てて回収したい。
これは賭けではない
最後に、逆側から考えてみた。もし「これは必要とされない」と判断するなら、それは何が起きたときか。やめる基準はどこにあるのか。
考えてみて、気づいた。
「やめる」が、存在しない。
アプリの形が別物に変わることはあるかもしれない。やることが変わることもあるかもしれない。でも、食材を管理して、無駄にせず使い切るというこの営みは、もう生活の一部だ。生活をやめることはできない。
スタートアップなら「必要とされない=死」だろう。でもこのプロダクトには床がある。最悪の場合でも、自分の生活を支え続ける道具として残る。自分の中でずっとこじんまりしたまま終わる可能性はある。でも、無駄になる可能性はない。
だから、N=1の不安は、解消しないまま抱えて進むことにした。不安の正体が「判定者がいないこと」なら、次にやるべきことは決まっている。判定者を連れてくるのだ。それは他人とは限らない。貯まりはじめた自分のデータ——廃棄のログが、最初の判定者になってくれるかもしれない。
次回は、数字で自分のプロダクトを検証してみる話を書く予定です。同じように、一人で作って一人で使っているものがある人。その不安と、それでも続ける理由を、よかったら聞かせてください。